下流のお一人様家計簿blog☆彡

座右の銘#お金は取るより使いよう(ご立派な 負け惜しみ・・) 毎月の家計簿公開と その他雑多なブログです

【自己紹介】
下流界おひとりさまアラセブンと申します。

日記内での言葉遣いは、方言で書く日記、「です。ます。調」でない日記
が出てきますご無礼をお許しくださいませ。
2020年2月ブログ開始

ブログデザイン模索中のため・突然デザイン変更あるかもです。

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カテゴリ: 人生観・男性観





夫が連れてきた女(元夫の不倫話)

夫と住む団地から逃げた日のこと

夫運に恵まれなかった一族(私も含む実家の祖母・母・姉)

これまで書いてきた私のブログを読んでいただいた方、
なんでそのような人と結婚したの?と思われたと思います。

私が結婚した理由は、
そのときは自分の理想の結婚相手だったからです。

自分の結婚相手の理想は・・
1、恋愛結婚
2、 年下
3、 会社員
(一番、肝心な性格が、当時は入ってない。

自分の父親が母親にしてきたことを見ていて、それよりも悪い男は、
いないだろうと考えていたので、
性格は重視していなかったのかも)

私のこの結婚相手の条件は、
生まれ育った家庭環境が 大いに関係していたと言える。

自分が生まれたとき、祖母・父・母・姉・私の5人家族だった。

4・5歳ごろ?のときから・・・徐々に・・
自分の家庭が 普通の家庭と違うことを感じ始めた。

おばば(祖母)と父ちゃん(父)が話をしない。
父ちゃんが母ちゃんを毎日いじめる(切れ間なく暴言を浴びせる)
穏やかな日が全くない家庭だった。

この家で育った私は、小学1年ごろは、
暗い女の子になっていた。
(このころから大人の心を探るような性格になった)

父は5人兄弟の長男で、ほかの4人兄弟は普通の性格。
昔は、世間的に長男が家の後継ぐものと決まっていたため、
祖母と父は仲悪いのに、長男である父が(稲作農家)跡を継いだ。



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私の両親は11歳違いで、結婚は見合いとも言えない、
結婚式当日に初めて互いの顔を見たといった。
結婚前に、母の兄が近所に父の評判を聞きに来たら(良い兄ちゃんですよ)と言われたとのこと。

結婚してみたら、父が祖母に暴言を吐くので、
祖母のほうに味方をしていたら、
暴言の矛先が自分に向けられたと、
母が私に言ったけど、
そうじゃなくても、
いずれは母をいじめることになるんだと、子供の私にでもわかった。

父は、酒は一滴も飲まず、お金の無駄使いもなく、
真面目な人で融通が利かない人だった。

村の寄り合いで、たまに飲んで帰ってくると、
少しだけ穏やかだったので、
父には家でも酒を飲んでくれたほうが良いと思うくらいだった。

両親を見て、男が年上だと威張って、
女をいじめるのかと思った。
好きじゃない人と結婚したら、
こんなことになるのか。


~~ 続きはこちら
人生観・男性観その2(私の子供時代)

完結まで5回くらいある長文です。
 重い話も出てきます。
私の屈折した性格と反骨精神を形成する土台になった家族の愛憎の記録です。

私が生まれて・・父が亡くなるまでの遠い昔の話です。




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人生観・男性観その1(理想の結婚)

 👆の話の続きです。

わたし、子供の時は外遊びが好きな子で、
友達とも遊んだけれど、一人でも寂しいと思わずに外で遊んでいた。

夕方、父のいる家に帰るのが嫌でたまらなかった。
普段・大人たちは、それぞれ仕事があり顔を合わせるのが夜だけだったが、
母への暴言は毎日続いた。
父がいない、たまの夕食日はうれしかった。

何よりも嫌だったのが、盆と正月。
盆と正月は仕事休みで、家族全員が長時間家にいるので、
父親の暴言が長時間になる盆と正月が大嫌いだった。

私は、今でいう、家庭の不和により自分の居場所がないアダルトチルドレンってやつです。
 父はモラハラ夫です。

明治生まれの祖母は、15歳で結婚し16歳で長男である父を生んだそうだ。
祖母は「酒飲みの夫が病気で、5人目の子供を妊娠中に亡くなり、
葬式はおなかが大きい時に出した」といった。

ものすごい働き者で、気が強い男勝りで口の悪い祖母で、
孫の私にでも怖い祖母だった。
(ただ、私が病気の時だけはすごく優しくしてくれて、
たまに、軽い風邪ならひくのも悪くないなと思ったものだった)
そんな超絶・気が強い祖母と、父が合うわけがないだろう。



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私が生まれてから、祖母が82歳で亡くなるまでの間、
祖母と父の二人が話すのを、誰も見たことがない。
それどころか、父は祖母が廊下を歩く足音を聞いただけで
「こら、ちくしょーぶんなぐってやろか~」ということを(富山弁)でいうのだった。

母には、一挙手一投足に文句や暴言を吐いていた。
母は、父がいるときはいつも下を向いていた。

父がいないときの母は 話が上手で私を楽しませてくれた。
(誰かを話題にするときは、その人の顔つきや声色の物まねで話をするのだった)
母の実家の村でお祭りがあると、他村の親戚が集まる。

私も母と姉の3人で母の実家に帰ったが、
その時も、子供たちが母の事を「おばちゃんの話は面白い」と、
母の周りに親戚の子供たちが集まった。

父も、自分の村のお祭りでは、
獅子舞踊りの横笛を担当していて、その時の父はかっこよかった。
(父は、私たち子供には優しかったので、自分と二人の時の父は少し好きだった)

ただひとつ「父ちゃん、母ちゃんをいじめるのやめて」というと、
「お前に(私の事)言ってるわけじゃないだろう、母ちゃんが言わせてるんだろう」と、
もっと母親にひどくなっていくので、私は黙って聞こえないふりでいるしかなかった。
(父は母に文句を付け、母が黙っていると何か言え!という、
言うとその言葉の上げ足をとり文句を言うことが、
小学校低学年だった私だが、母がどう言おうが、
父の暴言につながる図式が全部わかっていた)

稲作農家だったので、秋の米の収穫後は母屋からちょっと離れた納屋で、
両親二人で夜なべで脱穀作業などをしていた。

農家の仕事は大変だ。(農家の人と結婚はしたくない)
父は他の農家の人の誰よりも、夜なべ仕事が好きなんだということも分かっていた。
納屋で夜なべ仕事の時も、
のべつ幕なしに父の母への怒鳴り声が、夜、寝ている私の耳に聞こえていた。

夜12時ごろ納屋から、父より少し早めに戻った母が布団をかぶり、
声を殺して泣いている声を聴きながら、
私は寝ている振りで聞いたことが何度もある。

私は、朝、母親の顔を見ても、
昨日の夜泣いていたことを知っていると言わずに、いつも知らないふりをした。
(わたしは、見て見ぬふり、知ってても知らないふりが今でも得意、
時には・・無責任、時にはそれが思いやりのこともある)

父は家で米作りだけをしていて、夜なべをした翌日の朝は、遅めに起きていたが、
母は道路工事などの土方で働きに行っていたので、いつも朝5時前には必ず起きていた。

そんな、母ちゃんの人生が、かわいそうでならなかった。

父が午前の仕事を終えて昼ご飯を食べた後に、
昼休みで茶の間で目を閉じて休んでいると、
(子供が大人を殺すときは・・
大人が寝ている間に首にひもを巻いて絞めるのが
一番簡単な方法だな・・)と、
小学生の私の頭をかすめることもあった。

自分がこの家庭に生まれたこと、
この世に生まれたことも嫌だった、
体調は子供なのに、いつも不定愁訴のような症状で、
耳が塞がって耳鳴りが頻繁に起こった
(きっと、ストレスからくるものだったのだろう)

~~つづきはこちら
人生観・男性観その3(私の就職)

この話は遠い昔の話です。
現在のささやかな生活に幸せを感じているからこそ、
書くことができています。

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人生観・男性観その2(子供時代)
↑ の続きです。

この記事を書いていると、いろいろなことが思い出されて、
長文になってしまいますが、
私たち姉妹は父にいじめられたことはなく、
遠い昔のことなので、父に恨みもありません。

この記事は、自分が物心ついてから父が亡くなるまで
私が感じていた家庭への愛憎と葛藤の記録です。
======================

小学校の時、私が「この家をどうにかしたいね」と姉に言うと、
「仕方がないよ、運命だよ、どうにもならない」と大人びたことをいう。

私は他人から愛想のない子とみられていたと思う、
姉のことはおとなしい子と誰もが言っていた。

姉が中学生の時
「家庭環境が悪くて子供がぐれるなら、自分たちもぐれてるはずだよね」
と一回だけ言ったことがある。
普段おとなしくて、父のことは何も言わない姉だったけど、
そう思っていたんだなと思った。

思春期の私は、心の中で考えていた
(生きていたくもないけど、死ぬ勇気もない、
生まれてこないのが一番良かった。

もし父ちゃんに「母ちゃんと仲良くしてください」と、
自分が遺書を書いて死んだとしても、
父ちゃんが母ちゃんを大事にするようには絶対ならないだろう。
もっとひどく母ちゃんを責めるようになるだろう、それじゃ死ぬ意味がない)と、
死ぬ勇気もないのに そんなことをよく考えていた。



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もうすぐ中学3年になるころだったと思う、
そろそろ就職も考えるようになれば自分は大人だと思い、
大人としての自分がどうしても一度だけ、
父と二人になった時に聞いてみたいと思っていたことを冷静に聞いた。

「父ちゃんは母ちゃんを何であんなにいじめるが?」
「母ちゃんは、どんなことを言っても出て行かないからじゃ」

(父は妻に逃げられることがない安心感を持っているのか・・
母の話では、嫁に来てしばらくたったころ、
父の暴言暴力で実家に帰ったことが何度かある。
その時に父はいつも迎えに来て、
実家の親に、暴力を「もう、しません」と言って連れ戻されていたといった。
母は実家に帰っても、兄の家族に子供がいたし、
兄嫁に嫌な顔をされたので、
実家に居続けることはできなかったとも言った)

「そんなら、おばば(祖母)には?」

「学校に行きたかったけど、行かせてくれなかったから、
それと、小さいとき自分は、ばあちゃん子でかわいがられた。
離れたくなかったけど、離されたから」と(富山弁で)言う答えだった。

 (祖母は、若いころ長男家族のところに嫁に入ったが、
姑とうまくいかず、姑夫婦と別居をした。
時代は大正時代初期、
嫁に来た後に別居など考えられなかった時代だろう。
おばあちゃんにかわいがられていた父が、
別居によりおばあちゃんから引き離されたことが悲しかった、
」気の強い母を恨んだんだな、
それと父はすごく勉強ができる子だったらしいけど、
貧乏で学校に行けず勉強をさせてもらえなかったことを恨んでいるらしい)

自分の親への恨み事、それを差し引いても父の性格、暴言は異常だと思った。

その後、母に「この家を出よう」と言ってみた。
「行くとこないし、あの子(長女)がかわいそうで置いていけない」という答え。
(出る気はないってことだな)

もし、母と家を出たとして、家に残った人のことを一番心配しているのは私も同じ。
(私は、祖母とも、父とも血がつながっているし、嫌いなわけではない。
家を出ても この気持ちがすっきりするとも思っていない)

でも、うまくいかないときは、離れるのが解決策だと思うから言ったみたまで・・

(家族のみんなが、世間体も考えると、
この家族構成を変えることはできないとおもっていて、
私だけが、どうにかしたいと一人で考えていたといえる)

私はもうすぐ中学卒業、
家から離れ寮生活ができるところに就職したい。
(夢は女優で成功しお金を貯めること)
お金を貯めて住むところを確保してから、
母を呼ぼうとその時は強く思っていた。

(夢は夢として・・)中学卒業して、
石川県の紡績工場で寮生活をしながら働いた。

家を離れ寮生活をしても、
夜になると(今頃は母ちゃんが父ちゃんにいじめられてるんだろうなと考えてしまい)
ホームシックになった。

その紡績工場を2年で退職して、
実家の富山県に戻り、実家から徒歩で1時間ほどかかる電気部品の町工場に就職した。

この工場の一部は、2交代制勤務の職場があり、
2交代勤務の独身者が希望すれば寮生活ができた。
私は、家にいるのが嫌なので2交代勤務で寮生活をした。

姉は長女なので家の跡取りをしなければならないため、
機織り工場に就職し家から仕事に出かけていた。

そして、姉が婿さんをもらう年齢22歳に近づいた。
(私の地方では婿取りは早く結婚する慣習があった、
23歳では遅い、22歳までに・・といわれていた)

おとなしい姉は「こんな家に来てくれる人がいたら、誰でもいい」と、言っていた。
そんな姉に 縁談を世話する人が見合いの話を持ってきた。

お見合い相手は隣の村の男性で、姉の一歳年上。
同じ小・中学校出身だったので、私も、その人の顔を知っている人だった。

~~つづきはこちら
人生観・男性観その4(姉の結婚と破綻)

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↑の話の続きです。
重い話の長文ですが、最終回まであと少しのご辛抱を・・願います。

最終回はちょっとほのぼのした話を書きますので・・・
以下本文です。

姉は世間でいう結婚適齢期の年齢になり・・

おとなしい姉は「こんな家に来てくれる人がいたら、誰でもいい」と、言っていた。
そんな姉に 縁談を世話する人が見合いの話を持ってきた。
隣の村の、姉より1歳上の男性で、
同じ小中学校出身だったので、私も、顔を知っている人だった。

お見合いで、父親がその人を気に入って、結婚話がまとまった。

当時の結婚式は 自宅で行うのが普通だった。
結婚式で、一番うれしそうに見えたのが父だった。

姉夫婦の寝室になる部屋で、
お仲人さんを介添えに三々九度の盃を新・夫婦が交わすとき、
父が「高砂や~」の唄を唄った、父の歌は生まれて初めて聞いたが、
上手だったのが意外だった。

私は、結婚式という目出たい日なのに、これからの家族の先行きがすごく不安だった。
(この父親と婿さんはうまくやっていけるんだろうかというよりも・・
父とうまくやっていける男なんていない、
たとえ、どれだけ真面目な人でも父と合う人はいない、の考えのほうが強かった)

私は、ふとにぎやかな宴席を離れて、
振りそで姿で外に出て、そんなことを考えながら遠くを見つめながら立っていたら、
母親が私を見つけて近くにきたときに、
私は、ワッと泣いた。
(母はその時、私の涙の理由をどう思っただろうか?聞いてこなかったし、
私も、言葉に出してはいけないことと思っていたので言うつもりもなかった)

婿さんは酒好きな人で、父はこれまで家で一滴も飲まなかったけど、
毎日、婿さんの晩酌の付き合いをしていた。
2人は和やかそうに話をしているけど、
父は無理をしているんだろうなと思ってみていた。
(今まで、母にしてきた暴言も、婿さんの前ではできず・・・)


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姉の旦那さんは、働きに行っても長続きしないひとで、
お金遣いも荒い人だったようで、
地味で真面目だけが取り柄の、私の家族にはなじまないようだった。

祖母と母が、婿さんに感じている苦情を姉に言うことがあって、
私は姉がかわいそうに思っていた。
「姉が好きで連れてきた人ではないやろ」と言っても、
祖母と母には通じなかった。

私は、寮生活が基本だったので、休日や連休だけ時々家に帰っていた。

姉が一人目の子を妊娠しておなかが目立ってきていたときのこと、
私は休日で家に帰っていたその夜、

父と婿さん二人が晩酌をしていて、
何かの話で喧嘩になりそうになって、二人が立ち上がった。
姉は泣きながら、大きなおなかで二人の仲に割って入って止めていた。

姉は、長女で跡継ぎで婿取り・・家の犠牲だと思った。
姉がかわいそうでならなかった。

自分は、自由な次女で良かったと思っていた。
(でも、私がもしも長女で跡取りの立場でも 
この家にいたかどうか?)

私がいないときも父と婿さんのけんかはあるんだろうなと思っていた。
姉は1人目を無事出産した。

 私22歳の時、働いていた富山の電気部品工場から、
東京の営業所に転勤することになった。

転勤先の東京でも、会社の寮で生活をした。
富山と東京は遠いので、母にたまに電話連絡をしていた。
(携帯電話がない時代)
その後、姉は2人目の子供を妊娠したと電話で聞いた。

2人目の子の出産日当日は、
姉の婿さんは 平日の仕事の勤務日だった。
姉は陣痛が来て、産婦人科に母と行った。

そして無事に男の子を出産して、
婿さんが病院に、生まれた子供の顔を見に来るのを待っていた。

夕方、婿さんが家に帰宅したので、
家にいた祖母が「生まれたよ」と、教えたという。
「ふ~ん・・男?女?」と聞いたので、
「男の子」と答えると、
「また男か・・」と言い、荷物をバッグに詰めて、家を出て行った。

祖母は、病院で使う物をバッグに入れて
生まれた子供の顔を見に病院に向かったのだと思った。

姉と母は、産婦人科病院で婿さんを待っていたが、
婿さんはなかなか病院に来なくて、母は嫌な予感がした。

病院廊下で「病院に誰かから電話で○○さん(姉の苗字)が入院してますか?」と聞かれたと、
看護婦が母に言ったのだという。
母はますます嫌な予感がしたが、出産後の娘には、言えなかったという。
そしていくら待っても、婿さんは病院に現れなかった。

小さい町村なので、噂はすぐ広がる。
婿さんの駆け落ち相手は 既婚の飲み屋の女性。
女性は、嫁いでいたが実家に戻ってきていて、実家の飲み屋を手伝っていた。

母はその飲み屋のおかみさんと会って話を聞いたら、
「男性は独身と言っていて、それを信じていた」と母が私に話した。
(婿さんは名古屋方面に土地勘があり、そこへ逃避行した。
のちに、その女性とは長くは続かず、女性は嫁ぎ先に戻ったらしいが、
婿さんは戻らなかった)

姉は「子供を産んだ日に 旦那が女作って逃げられた女」となった。
その時、姉25歳、婿さん26歳・・
4年間ほどの短い結婚生活に 一方的に終止符が打たれた。

私はこのことを単純に「姉がかわいそうだ」とは思わなかった。

父と婿さんのけんかの仲裁、祖母と母からの婿さんへの苦情を聞かされていた姉。
すごく気苦労しただろう。

「婿さんいなくなったことに姉は ある意味すっきりしたんじゃないかな?」と、
私はとらえた。

父は婿さんがいなくなってから・・前のように母に対して暴言が戻った、
そして父は姉にまで「旦那に逃げられた ダメな女」というようになったという。


 ~~つづきはこちら
人生観・男性観その5(祖母の死)

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人生観・男性観その1(理想の結婚)

人生観・男性観その2(私の子供時代)

人生観・男性観その3(私の就職)

人生観・男性観その4(姉の結婚)
↑の日記の続きです。


 「2人目の子供を産んだ日に、女を作った夫から、
子の顔も見ないまま逃げられた女」と、世間からみられるようになった姉。

父は婿さんがいなくなってから・・前のように母に対して暴言が戻った、
そして父は姉にまで「旦那に逃げられた ダメな女」というようになったという。

姉の2人の幼子(祖母にとってはひ孫)は、この祖母が保育園の迎え、
母は土方、姉は工場で働いていた。

ある日、名古屋の運送会社から電話があり
「うちで働いているお宅の息子さんが、運転中に事故を起こしそのままいなくなって、
困っている、部屋も借りてあげていて、借金も残っているので、払ってほしい」と言われた。

その時、父が婿さんの事情を話すと、運送会社の人は「それはお気の毒・・」といい、
父に借金の請求はしないといって落着したそうだ。
(連絡先住所を 出て行った家にしていたのも驚いたが・・)

その後何か月かたったころだと思うけど、
東京新宿のサ〇ルートホテルから、保証人連絡先の確認電話があったらしい、
その時も父は状況説明し、保証人を断ったと、母から聞いた。
(婿さんは、独身時代東京でもはたらいたことがあると私に言っていた)

それでも、父は孫が父なし子ではかわいそうと言い、
婿さんの籍を抜かずにいたが、
裁判所から手紙が来て、婿さんのほうから除籍の訴えが出ているので、
裁判所に来るように、もし出廷しなければ敗訴になると書かれていたらしい。

裁判所は自宅から汽車を乗り継ぎ2時間以上かかる場所で、遠方にある。
姉は裁判所に行くのは嫌だし、その暇もないと、除籍をし離婚した。



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父を16歳で産んで、5人目の子を妊娠中に夫に先立たれて、
女手一つで必死に働き男勝りで父と仲の悪かった祖母、
高齢になり、高血圧の薬を飲み、
頭が痛いと手拭いを濡らして頭に巻きながらも、
畑は自分の担当とばかりに働いていた。

その祖母が、朝方便所に行こうとして、
廊下を這いずっている姿を
最初に父が見つけ・・「あれは 何をやっとるがじゃ」と、
母に言ったということだった。

普通の親子なら、親がそういう状態ならどうした?と聞くが、
話をしたことがない父と祖母だったのだ。
それどころか祖母の姿を、部屋の障子越しに感じただけで、
こら!こんちくしょう!と
暴言を吐く 父だった。
(気の強い祖母は、あれは気違いだ、できそこないだと、
陰で子供の私に言った)

祖母が82歳で、自宅で母の介護を受け、3か月ほどで亡くなった。

自宅で寝たきりでいて、外で世帯を持つ子供たちが見舞いに来ても、
父は祖母が亡くなるまで1度も様子を見に行くことはなかった。

身内の死後四十九日までは、
肉・魚・生ものを食べてはならないという地方の風習で、
生ものを避けていたけど、
卵と少しの肉ならどこの家も食べているというのを聞き、
葬儀の後
(実家にいる間は私が調理担当と、あてにされていたので)
私は家族に卵焼きや、カレーなどを作って出した。

姉と母はそれを食べたけど、父は「生もんだから・・」と、食べなかった。

「卵なら良いやろ?カレーから肉だけ外して食べたら良いやろげ」と言っても、
頑として、父は食べなかった。
(生みの母にしてきた暴言・親不孝に対する、今更の贖罪なのか)
私たちは卵と煮物に入れた少しの肉は食べたけれど、
父は、四十九日過ぎるまで、魚・肉・卵は一切食べなかった。

~~~つづく~~~


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人生観・男性観その1(理想の結婚)

人生観・男性観その2(私の子供時代)

人生観・男性観その3(私の就職)

人生観・男性観その4(姉の結婚)

人生観・男性観その5(祖母の死)

↑の日記の続きです。

長文です。


5人目の子供を妊娠中に夫に先立たれた祖母。
長男で跡取りの父と、仲が悪く話をしたのを
私は一度も見たことがないまま 祖母は亡くなった。

祖母の死から
その2年後・・のこと、

父は日頃から背中が痛いと言っていた。
(昔、農閑期に、泊りがけで伏木港で船に塩を積む仕事をしていたことがあり、
その時に塩の塊が、背中に当たったことがあって、
その後遺症と、父は私にいっていた)

当時は70歳以上になると、医療費が無料になる時代だったので、
父はその70歳まで我慢して、70歳になった時に病院で受診すると、
すでに黄疸が出ていて・即入院となった。
(家族は、父は日焼けしているし夜は蛍光灯照明が暗目だったので、
顔色に気が付かなかったそうだ)

父が手術を受ける日に、
私は東京から駆け付け、母と姉と3人で病院の手術待合室にいた。

その時に私と姉は「父ちゃんが麻酔が効いて意識がない間なら苦しくないし、
手術中に亡くなってしまうのが一番良い」と、
母とちょっと離れたところでこっそりと二人で話した。
(その時の母の思いは知らない、聞いてはいけないことと思った)

難しい手術だったらしく、8時間以上の長時間手術だった。

父が手術の麻酔から覚めたとき、私にいつ東京に戻るかを聞いてきた。
(病院は汽車の線路の近くに建っていて、1時間に1本ほどしか通らない)

父は、私が汽車に乗り病院そばを通る時間に
「その時間は 病院の屋上で 手を振っとるよ」と私に言った。
(父はまだその時は 起き上がることができないのに 私にそう言った)

同居家族に吐いてきた自分の暴言により、家庭を暗くし皆を遠ざけてきた父、
早くに家から父から離れた私のことが、父は一番好きだったのかもしれない。

父は、受診して即入院・手術の6か月間に一度も家に戻ることなく、
ベッドに寝たきりで過ごした。

その間、母はずっと付き添い(完全看護制度はなかった時代)
70歳で亡くなった。すい臓がんと肝臓疾患だった。
(父が亡くなった時に 担当医師が涙ぐんでいたと、母が言っていた)

私は東京なので、死に目には会えなかったけど、私と姉の心境は悲しくはなく
(父がいなくなって、これから平和な家庭になるだろう)ことにホッとした。

母は父より11歳年下なので、60歳ぐらいだった。
これから・・夫の暴言から解放された母の新しい人生が始まると思うと
これで良かったんだと思った。
(子供の時に中学卒業したら働いてお金を貯めて母を引き取ろうと思ったけど
できなかった、父が死んだ今、自分の肩の荷も降りた気がした)

もう一つは闘病で長く苦しんだ父ちゃんが、やっと楽になれたことにも・・ほっとした。

母が後日談として「父ちゃんは独り言で痛い痛い、コワイコワイ(苦しい苦しい)
もうあかんなと言っていたけど、ものすごい我慢強い人だった」といった。
(苦痛を母に訴えることはなく、余命宣告はしなかったけど、
独り言でもうあかんなと死期を悟っていたという)



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酒も飲まず、真面目に働き、お金をためてきた父が、
葬式の時(母へのこれまでの暴言で・・娘たちから、死んでホッとされる父親って・・・)
父のその不憫さを思い涙が流れた。

その後に母は私に、遺産相続放棄をしてほしいと言ってきたので、
家の跡取りが全部引きつくのが当然のこと、
家に残って苦労した母と姉に遺産を分けてもらうつもりは、
初めからなかったので、印を押した。

現在、姉の2人の子は40代後半、長男は不真面目な自慢にならない男、
次男は真面目な男に育った。

むかし、一人目の子供が生まれたとき、婿さんが姉に「この家を出よう」と、
言ったそうだ。

姉は「私は跡取りだから、家を出るわけにはいかない」と答えたという。
酒好き、金遣い荒く、仕事に飽き性で、生活力に難ありな婿さんだったから、
実家を出て別世帯持っても、姉は金銭的に苦労させられたことだろう。

(この男の特徴、どこかで聞いたことが・・・次女(私)の旦那と同じじじゃん)

姉の婿さんは姉と別れてから、女のひも的な生活をしていたらしい。
(婿さんの母親が生前、姉にヨリを戻して家に入れてほしいと頼みにきたことが何回かあったというが、
婿さんがお金に困って生活できなくなったので言うのだろうと、
私の実家のみんなは思っていて、断わっていたそうだ)
そして、婿さんが齢とって一人になった今、生活ができず生活保護受給していると聞いた。

姉と私は男運がない・・のは似ている、

姉は自分の結婚を振り返って・・
そんなに長く一緒にいなかったから、わからんけど、
(次男が生まれた日に、子供の顔を見ずにいなくなって、結婚生活期間は4年ほどかな?)
父ちゃんよりは、婿さんのほうが良かったと言った。
(姉は自分と2人の子を捨てて行った夫を、恨んでいないのだ)

私も、結婚生活20年ほどで、父親より夫のほうがマシだったと思う。

「酒好き・金遣い荒い・女・転職」という共通点がある、姉妹それぞれの二人の夫たちと、

「酒飲まない・真面目に働きお金を貯める父親」と較べて、
父よりは、あの夫たちのほうがマシな人だったと思う・・理由?

【二人の夫たちは妻と普通の会話もした、
時には妻のご機嫌も取る夫(おもに、小遣いをせびるとき)】だったからに、ほかならない。

私の両親からは、普通の会話は1度も聞いたことがなく、
妻を毎日怒鳴るだけ、一挙手一投足に文句をつけるだけの夫、
子供が楽しいはずの盆・正月も、一家だんらんを味わうこともなかった家庭が、
子供(姉と私)の人生観と男性観を変えてしまったのかもしれない。


私の夫 50歳から生活保護受給~59歳で死去。
姉の夫も生活保護で施設入居してると、婿さんの実家の兄弟から聞いたそうだ。
(姉は婿さんの実家の人と、なんのわだかまりなく話ができる関係で、
昔・父が亡くなった時、すでに除籍していた婿さんの母親が、仏前にお参りに来たらしい)
(私も元・夫のお姉さんと合ったり、電話でも話をする良い関係)
ここにも共通点が・・

ただ姉と私が大きく違ったのは 
「父親と母親のような結婚はいやだ・・
母親のような人生は 送りたくない」
中卒後は寮のある会社に就職したいと、
一日も早く家を出ることを望んだことだ。

私は自分が望む理想の相手(設定が安直)
1恋愛結婚(好きじゃないと、うまくいかない)
2年下(年上男は、威張るからイヤ)
3会社員(農業は大変だから・・)
と思って選んだ男で・・
これ以上、一緒にいたら不幸になると思ったときに、
夫から逃げたことだ。(なんの自慢にもならないね)

私が離婚するなら 父が亡くなってからと考えていて、
その通り実行した。

父がいるうちに離婚すると、「娘が二人とも離婚した」と言って、
母を責めたてる種が一つ増えることになるだろうことが、想像できたからだった。


小さいときの家庭環境で、私は人間世界を嫌う性格になったけど、
母親は優しい人だった、父親も私には優しかった。

私は、父親のすべてが嫌いだったわけではない、
「母といる時の父親」それだけが、嫌いだったのだ。

父の生前、母には父より20年は長生きしてほしいと思っていた。
父より先に母が死ぬのは絶対いやだ、
もし父が先に死んだ後に、
その先、母が10年ほどだけ生きたとしても、
父の暴言で長年過ごしてきて失った人間らしい人生は、
10年間では取り戻せないと、私は思っていたからだ。

母は、父の死後30年以上生きて、92歳で亡くなった。
(その30余年間の母の人生の内容は、
暴君だった父の死後に母と姉が過ごした暮らしは・・
 良いものだったといえるかどうか・・・??)
 
父が亡くなるまで、遠い地で暮らしていても
家族という管轄から 心を外すことができなかった私だが、
父の死後の母と姉の暮らしは、
私の管轄外というほかない。

これで、私が子供の頃、家族の温もりをひたすら求め、
家族に父に感じていた愛憎と、葛藤の話は終わりです。

~~つづく~~

次回最終回は、父と私のほのぼのするエピソードと、
ちょっと不思議なことを書きますので、
 読みに来ていただけたらうれしいです。    

続きはこちら ↓
人生観・男性観その7最終回(父とのエピソード)

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人生観・男性観その1(理想の結婚)

人生観・男性観その2(私の子供時代)

人生観・男性観その3(私の就職)

人生観・男性観その4(姉の結婚)

人生観・男性観その5(祖母の死)

人生観・男性観その6(祖母に続き父の死)

↑の日記の続きです。

何歳だったかはわからないけど7歳前後か?子供の頃一度だけ父と二人で出かけた記憶。
汽車に乗り継ぎ2時間かかる地方都市で博覧会というものがあって、
めったに乗ることのない汽車だけど、
汽車に乗った記憶も、博覧会内容なども覚えていないのに、
初めて街頭TVで「プロレス」を見たことだけをはっきり覚えていて、
父と2人で出かけたことが生涯この1度だけだったので、
なぜ父と出かけることになったのか?懐かしく、温かく、不思議な記憶です。

 15歳で紡績工場で寮生活をしたけれど、2年で仕事をやめたくなった私。
この工場は、自分で退職を頼んでもなかなか辞めさせてくれないので、
親が頼みに来るのが普通だった。
(それができず、寮から逃げて、いなくなってしまう女子もいた)
工場を辞めたくなったその時、
私も親に言ったら、父が遠い実家から石川県の工場に頼みに来てくれて、
辞めることができた。

その時はすごく父が頼もしいと思った。
退職を頼みに来た父は、その日に家に帰って行った。
私は工場の寮から自分の荷物を段ボールに詰めて実家に送った。
(あの時の荷物の数は極少なく ミニマリストだったな)
自分のお金で買った芸術家「ロダンの考えるひと」レプリカ卓上型も荷物に入れた。
荷物は私より先に家に着いた。
その荷物を父が開けて「考える人」を見つけたとき、
姉が「父ちゃんが独り言で『変なヤツだと思っていたけど・・やっぱり変なヤツだった』といってたよ」と私にいった。姉はこの芸術品のことを父に説明はしなかったらしい(説明したれよ!妹の名誉のために・・!!
18歳にも満たない私を、男の裸を持ってる変態女扱いか!!)こりゃおもろいわい。
卓上レプリカ像86c1e2.jpg

 父は、私が社会人で18歳の時・・・
「免許持っとったら、車でも買うてやるがに・・」と、
ぼそっと独り言のようにつぶやきました。
私は、その言葉を聞き逃さず・・即・自動車学校に通って免許を取りました。
(実家での自動車免許取得者第一号になり)そして「HONDA N360」(軽で初のオートマ車)8cda83.jpg
(画像はN360イメージです、私の車は白だった)
新車をキャッシュで父に買ってもらい自分用で乗り回し、
ガソリン代は、当たり前のように父が払ってました。
(これを社会人になって、車を購入した娘に話したら、
働いてたのに?・・え~っ!!てあきれてました)

 22歳で私が東京営業所に転勤になり、
27歳で結婚が決まり成城の砧区民会館で挙式の時に
実家の家族も富山県から来て列席した。
夫と、キャンドルサービスで実家のテーブルに行ったとき、
父が嬉しそうに笑顔で「おめでとう、おめでとう」と、何度も何度も言いながら、
父の横に座り私をみている母に、
「ほらお前もおめでとう言ってやれよ」と促すようなしぐさを、していたのが忘れられない。

15歳で家を出て就職して、たま~に電話連絡は母にはしていたけど、
父には全く連絡したことはなく・・私の様子が気になっても母に聞くこともなく、
父はこの結婚式が、とってもうれしかったのだろう。

 病気になり、手術後で起き上がれない状態の時に、
汽車に乗り東京へ帰る私に「病院の屋上で、手を振っとるよ・・」といった、
私への父の最後になってしまった言葉を・・

今・その言葉を思い出し、しみじみとかみしめ郷愁に浸っています。

義務教育終了まで、子どもの人生は親次第。
中学卒業してからは自分の人生と・・
私は中卒後すべて自分の選択で、自分の道を歩んできたので後悔はない。

他人から嫌なこと言われても、父親が母に言った暴言よりはマシじゃないかと思い、
会社で嫌なことがあっても、会社の枠内だけのこと、
この人と家で一緒に住むわけじゃなし・・と思うことで、
乗り超えて来ることができた。

年齢の節目節目で考えても、中学卒業までの逃げる場も、力もない15年間が、
自分にとっては、一番つらい時期だったけど、
その父のおかげで??少しのことではくじけない、
耐性が身に付けられたのかもしれない。

そして、子供の頃よりは体調が良くて元気に、
この文を書いているこの瞬間が、
私の人生で一番良い時期になることだろう。

___ おわり___



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これまで書いてきたことは 全部事実ですが・・
一つだけ 事実かどうかわからないけど、信じたいことがあります。
それは・・
父が亡くなったあと、母が霊が透視できるという人に会いに行ったと、
そのことを電話で私に言ってきた。
その透視の人には 母が父について何も話していない(父の事前調査はしていない)

透視する人の話の内容は・・
「〇色の着物を着て出てこられました。
自分はよい夫だったとは言えない、娘のことを可愛いと思っている。
亡くなったことに後悔はないと言っておられる。
ただ一つ心残りは、何かわからないけど、石のようなものが見えます・・」と透視の人がいったそうだ。

母は「父ちゃんは寝る時は、いつも〇色の丹前(寝間着)を着ていた。
石のようなものは、父ちゃんが家の裏の土手を石垣にしたいと言っていたので
そのことだと思った」と少し興奮気味に話した。
母は「家族を守ってや」といったら「わかったぞ」といっていたと。

母は「寝間着の色、石垣の事、自分しか知らないことを当てた」と透視の人の話を信じて
「自分が良い夫だったとは言えない・死んだことに後悔はない」
を聞き、心が救われたようだった。

私も、この透視で父が言ったという言葉を、自分の心の癒しとして信じようと思った。
(父が生前は、夫に逃げられたダメな女と姉を罵っていたと聞いていたが、
娘のことを可愛いということは、やっぱり姉のことを心配していたんだな)
と、うれしかった。

「娘たちがかわいい」と言わず「娘がかわいい」と言ったということは姉のことだと
思って余計うれしかった。
(私は、その時結婚して子供が2人いて、
父は安心していたはず心配はかけていなかったと、今でも思っている)

「そして、母は家の裏の土手を、知り合いの造園屋さんに石垣にしてもらい、
父の心残りを叶えた」(これは事実)


この世では、酒飲まず、真面目に働いてお金を貯めたが、
家の者に対する数他の荒い言動で、自ら家族を遠ざけてきた父、
私は、あの世は無いと思っているけど、
もしあの世があって、私がいつか父に会いに行ったとき、
私の結婚式で見せたような相好を崩し嬉しそうに笑う姿が、目に浮かぶ。

好きな志村けんが70歳という年齢で亡くなったことが、
37年前に、父が70歳で亡くなったことの遠い記憶を呼び覚まし、
今70歳の私が、かつての父への愛憎と葛藤 心の内を書こうと思いました。

70歳はこれまでの事、この先の事 いろいろ考える齢。 

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