人生観・男性観その1(理想の結婚)

人生観・男性観その2(私の子供時代)

人生観・男性観その3(私の就職)

人生観・男性観その4(姉の結婚)

人生観・男性観その5(祖母の死)

人生観・男性観その6(祖母に続き父の死)

↑の日記の続きです。

何歳だったかはわからないけど7歳前後か?子供の頃一度だけ父と二人で出かけた記憶。
汽車に乗り継ぎ2時間かかる地方都市で博覧会というものがあって、
めったに乗ることのない汽車だけど、
汽車に乗った記憶も、博覧会内容なども覚えていないのに、
初めて街頭TVで「プロレス」を見たことだけをはっきり覚えていて、
父と2人で出かけたことが生涯この1度だけだったので、
なぜ父と出かけることになったのか?懐かしく、温かく、不思議な記憶です。

 15歳で紡績工場で寮生活をしたけれど、2年で仕事をやめたくなった私。
この工場は、自分で退職を頼んでもなかなか辞めさせてくれないので、
親が頼みに来るのが普通だった。
(それができず、寮から逃げて、いなくなってしまう女子もいた)
工場を辞めたくなったその時、
私も親に言ったら、父が遠い実家から石川県の工場に頼みに来てくれて、
辞めることができた。

その時はすごく父が頼もしいと思った。
退職を頼みに来た父は、その日に家に帰って行った。
私は工場の寮から自分の荷物を段ボールに詰めて実家に送った。
(あの時の荷物の数は極少なく ミニマリストだったな)
自分のお金で買った芸術家「ロダンの考えるひと」レプリカ卓上型も荷物に入れた。
荷物は私より先に家に着いた。
その荷物を父が開けて「考える人」を見つけたとき、
姉が「父ちゃんが独り言で『変なヤツだと思っていたけど・・やっぱり変なヤツだった』といってたよ」と私にいった。姉はこの芸術品のことを父に説明はしなかったらしい(説明したれよ!妹の名誉のために・・!!
18歳にも満たない私を、男の裸を持ってる変態女扱いか!!)こりゃおもろいわい。
卓上レプリカ像86c1e2.jpg

 父は、私が社会人で18歳の時・・・
「免許持っとったら、車でも買うてやるがに・・」と、
ぼそっと独り言のようにつぶやきました。
私は、その言葉を聞き逃さず・・即・自動車学校に通って免許を取りました。
(実家での自動車免許取得者第一号になり)そして「HONDA N360」(軽で初のオートマ車)8cda83.jpg
(画像はN360イメージです、私の車は白だった)
新車をキャッシュで父に買ってもらい自分用で乗り回し、
ガソリン代は、当たり前のように父が払ってました。
(これを社会人になって、車を購入した娘に話したら、
働いてたのに?・・え~っ!!てあきれてました)

 22歳で私が東京営業所に転勤になり、
27歳で結婚が決まり成城の砧区民会館で挙式の時に
実家の家族も富山県から来て列席した。
夫と、キャンドルサービスで実家のテーブルに行ったとき、
父が嬉しそうに笑顔で「おめでとう、おめでとう」と、何度も何度も言いながら、
父の横に座り私をみている母に、
「ほらお前もおめでとう言ってやれよ」と促すようなしぐさを、していたのが忘れられない。

15歳で家を出て就職して、たま~に電話連絡は母にはしていたけど、
父には全く連絡したことはなく・・私の様子が気になっても母に聞くこともなく、
父はこの結婚式が、とってもうれしかったのだろう。

 病気になり、手術後で起き上がれない状態の時に、
汽車に乗り東京へ帰る私に「病院の屋上で、手を振っとるよ・・」といった、
私への父の最後になってしまった言葉を・・

今・その言葉を思い出し、しみじみとかみしめ郷愁に浸っています。

義務教育終了まで、子どもの人生は親次第。
中学卒業してからは自分の人生と・・
私は中卒後すべて自分の選択で、自分の道を歩んできたので後悔はない。

他人から嫌なこと言われても、父親が母に言った暴言よりはマシじゃないかと思い、
会社で嫌なことがあっても、会社の枠内だけのこと、
この人と家で一緒に住むわけじゃなし・・と思うことで、
乗り超えて来ることができた。

年齢の節目節目で考えても、中学卒業までの逃げる場も、力もない15年間が、
自分にとっては、一番つらい時期だったけど、
その父のおかげで??少しのことではくじけない、
耐性が身に付けられたのかもしれない。

そして、子供の頃よりは体調が良くて元気に、
この文を書いているこの瞬間が、
私の人生で一番良い時期になることだろう。

___ おわり___



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-3159902706487772"
data-ad-slot="8389535142"
data-ad-format="auto"
data-full-width-responsive="true">


これまで書いてきたことは 全部事実ですが・・
一つだけ 事実かどうかわからないけど、信じたいことがあります。
それは・・
父が亡くなったあと、母が霊が透視できるという人に会いに行ったと、
そのことを電話で私に言ってきた。
その透視の人には 母が父について何も話していない(父の事前調査はしていない)

透視する人の話の内容は・・
「〇色の着物を着て出てこられました。
自分はよい夫だったとは言えない、娘のことを可愛いと思っている。
亡くなったことに後悔はないと言っておられる。
ただ一つ心残りは、何かわからないけど、石のようなものが見えます・・」と透視の人がいったそうだ。

母は「父ちゃんは寝る時は、いつも〇色の丹前(寝間着)を着ていた。
石のようなものは、父ちゃんが家の裏の土手を石垣にしたいと言っていたので
そのことだと思った」と少し興奮気味に話した。
母は「家族を守ってや」といったら「わかったぞ」といっていたと。

母は「寝間着の色、石垣の事、自分しか知らないことを当てた」と透視の人の話を信じて
「自分が良い夫だったとは言えない・死んだことに後悔はない」
を聞き、心が救われたようだった。

私も、この透視で父が言ったという言葉を、自分の心の癒しとして信じようと思った。
(父が生前は、夫に逃げられたダメな女と姉を罵っていたと聞いていたが、
娘のことを可愛いということは、やっぱり姉のことを心配していたんだな)
と、うれしかった。

「娘たちがかわいい」と言わず「娘がかわいい」と言ったということは姉のことだと
思って余計うれしかった。
(私は、その時結婚して子供が2人いて、
父は安心していたはず心配はかけていなかったと、今でも思っている)

「そして、母は家の裏の土手を、知り合いの造園屋さんに石垣にしてもらい、
父の心残りを叶えた」(これは事実)


この世では、酒飲まず、真面目に働いてお金を貯めたが、
家の者に対する数他の荒い言動で、自ら家族を遠ざけてきた父、
私は、あの世は無いと思っているけど、
もしあの世があって、私がいつか父に会いに行ったとき、
私の結婚式で見せたような相好を崩し嬉しそうに笑う姿が、目に浮かぶ。

好きな志村けんが70歳という年齢で亡くなったことが、
37年前に、父が70歳で亡くなったことの遠い記憶を呼び覚まし、
今70歳の私が、かつての父への愛憎と葛藤 心の内を書こうと思いました。

70歳はこれまでの事、この先の事 いろいろ考える齢。 

ランキングに参加しています下流で独りの家計簿blog - にほんブログ村
応援クリックをいただけたら励みになります

にほんブログ村 その他生活ブログ 家計管理・貯蓄へ
にほんブログ村


人気ブログランキング